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№150 いい女がいれば惚れろ?

中小企業法務ではありません。 №150 いい女がいれば惚れろ?

 私は仏教に対する強いあこがれがある。もっとも,世の中に神様などいないと思っているので仏様などといっても簡単に信じることはできない。しかし,あるがままに生きようとする仏教の姿勢は魅力的だ。心の平穏を目指したり,衆生の一切を救済しようと言う大乗のあり方にも魅力を感じる。

 いったい,人が自由であるというのはどういうことなのだろうか。私は中学校ぐらいの頃から自分がいやで仕方がなかった。自分が余りに凡庸であったり,友達と楽しくできなかったりして,いやだいやだと思っていた。人を好きになれない人間だとも思っていた。自分は不自由で,不自然で,偽善者だと思っていた。〈今でも時々思うのだが。〉

 なんのことはない,「自我の目覚め」である。中学校ぐらいになると自我を見つめることができるので,自分の「凡庸さ」が見えてくる。ああ,みなきゃよかったと思ってもそんなことはできない。これは人間という生物の宿命だ。脳が発達している分,自分が分かるのだ。自分が分からないやつは,その分,脳が発達していない。ちょっと言い過ぎか。

 このあたりの,自分の凡庸さを受け入れることや,自分の感情に素直になること,うれしいことをうれしいと思い,好きという感情を好きと受け入れることに違和感を感じなくなること,これらは私の人生上の大きな課題の一つになっている。自分の気持ちのままに,要するに「いい女がいれば惚れろって」ってか? お釈迦様はそこまでは言っていないだろう。いや言ってるかもしれないなあ。高野山には真言立川流とかいう変な密教があったそうだし。

 西洋人は自我を押しだし,自己決定をもって自由とする。自らの責任で人生の方向を意思決定する。これが西洋流自由だ。しかし,東洋はちょっと違うだろう。我が敬愛する漱石先生は「則天去私」などと言って,近代自我と格闘され,ついには胃弱になってしまった。若い頃,先生は留学中の倫敦で泣いてばかりいたそうだ。「猫」に登場する山羊独仙先生は「自然法爾」が大好きだった。自我を滅却し,あるがままに人生を楽しむ,これが東洋の自由だ。やっぱり,「いい女がいれば惚れろ」ということかもしれない。ああ,何だか危ない思想だ。どうしようか。