№1451 ベジタリアンって窮屈?
私は野生生物の保護に力を入れているのでベジタリアンと出会うことがけっこうある。ベジタリアンと言ってもいろいろで,伝統的な宗教の立場から動物性の食物を口にしない人もいる。日本の仏教徒はだいぶお肉を食べているが,海外の仏教徒やジャイナ教徒などの中はかなり厳格に徹している人もいる。こういう人に出会うと文化の違いに驚く。
以前,EUのどこかの国でテレビを見ていたら動物愛護団体のコマーシャルが牛の屠殺現場の映像が出していていて動物愛護を訴えていた。そこまで徹するなら動物愛護も許せる気がする。日本などは江戸時代ぐらいまでは肉は食べない文化があったので別にベジタリアン社会でもやっていけるのかもしれない。
動物愛護の歴史は古い。
動物の虐待が非人間的であるということで,1700年代ぐらいから論じられてきた。人間性の根本にかかわる問題だとされたり,生命の尊厳という議論から語られたりしてきた。1970年代になると,さらに動物の権利,アニマルライツという思想も枝分かれしたりした。
1970年代というとベトナム反戦運動が盛んとなり,リベラリズムが世界を席巻した時代だ。既存の価値観,特にキリスト教や近代合理主義に対して反省も起こり,東洋文化への憧れも起こった。ビートルズなどもインド楽器シタールを取り入れたりしていた。
こうした問題は非常に哲学的で個人の生き方にもかかわる問題でもある。
私の立場は肉食に何が問題があるのだという立場だ。生物を犠牲にしないというのであれば,植物やウィルスはどうなんだという極論だってある。ペスト菌をこの世から撲滅することは是か非かだって考えることになる。
人は食物連鎖の中で生きている。人も生態系の一員だというのが私の立場だ。野生生物たちが常に何か生きたものを食べながら生きているように人間だって何か生きたものを食べながら生きている。生物としての人間の性(さが)として避けられない宿命だ。
確かに人としての生命のありがたさを感じるのは当然だろう。生きて充実した人生を送りたいというのも人間の性だ。私たちの生命が大切なように動物たちの生命の大切さを感じることも必要なことだろう。しかし,それだからと言ってベジタリアンを選択することにはならない。
私たちの文化,特にローカルな文化に常に生物に対する畏敬がある。私たちは古来から食べ物を与えてくる自然に感謝して生きてきた。世界のあらゆる文化には自然に対する畏敬がある。私たちの祖先は常に自然や生命とつきあう作法を追求してきた。そこが大事なところだ。だから動物愛護からベジタリアンになるというのはどうも肌にあわない。