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№500 仏教のリアリズム

№500 仏教のリアリズム
 ブログナンバーもついに500回になった。
 500回記念という訳ではないが、宗教の話だ。

 私は神様などいないと思っているが、仏教には大変惹かれる。出家もいいな、西行はうらやましいなと思うこともあるが、凡夫は俗な気持ちがとれないから出家は無理だ。でも、将来はせめて寺男ぐらいにはなりたいと思うことはある。
 
 お釈迦様は29歳の時に出家し、6年もの間、厳しい修行を経たものの悟りは得られなかった。苦行じゃダメだと思いながら、ネーランジャラー河で沐浴をしていたが、そのときに、村の少女スジャータの差し出す乳粥を飲んで元気を回復した。その後、菩提樹の下で瞑想し、ついに悟りを開いた。当時の沙門はみな難行苦行をしていた。普通にがんばる人なら苦行が足りないと思うところを、釈尊は苦行じゃダメだと思ったのだ。ここのところが釈尊の天才なのだろう。
 
 私はここに釈尊のリアリズムを感じる。誰もが思い込んでいて、その道を抜け出せないでいることは多い。しかし、現実を正しく見れば、自分の実際を正しく見ることができれば、それではダメだと思うことができる。リアリズムというのはそうしたところから生まれると思う。
 
 仏教のリアリズムの例として毒矢のたとえがある。
 これは「尊師が宇宙の真理を明らかにしないならば修行をしない」という問いに対する答えだ。
 釈尊の言葉を要約すると次のようになる。「毒矢に射られた人が、『射た者が王族か、バラモンか、奴隷か明らかになるまで毒矢を抜いてはらならない。皮膚の色が黒かったか、黄色かったか、金色だったか分かるまで抜いてはならない。』言ったとしよう、こういう人は真実を知る前に死んでしまう。」
 四の五の言わないでとっととやれ、やって確かめろということですね。
 
 私は常にとらわれたくない。流れる雲のように自由でありたい。私はいつも未来に向かって生きていきたい。好きなものを好きだと言い、正しいと思ったことを正しいと言える人間でありたい。苦行三昧でだめならやめたらいい。スジャータの乳粥や毒矢のたとえは「自由である人」の態度、自由であることの大切さを説いていると思う。
 
 そういえば、自然法爾は親鸞の教えだが、自由につながる。私の敬愛する夏目漱石先生も則天去私と言っていた。もちろん、これは自己決定を核とする freedomとはかなり違った言葉だ。しかし、東洋的「自由」というのはいいですね。