名古屋・豊橋発,弁護士籠橋の中小企業法務

名古屋,豊橋,東海三県中小企業法務を行っています。

№1950 こんな死に方をしたい

№1950 こんな死に方をしたい

ばあさんのこと
 私の母は今年で84才になる。週に一度は様子を見に行っているのだが、本当は一人暮らしでほっとけない。ばあさんは庭いじりを生きがいにして、庭の草木を見ては「何もかもうまくいった」「今はほんとに幸せ」と言ってくれている。家内ではちょっとの大切なものを残して全て捨ててしまった。死ねる準備はできているといわんばかりだ。

死ぬということ
 ばあさんの様子を見ていると死ぬことに考えさせられる。
 私には家族がいるので簡単に生きているのをやめる訳にはいかないが、私自身は本当は余り人のいないところで生きたいと思っている。

 別に隠遁生活というわけでもないが、自分の食べるものぐらいは自分で作り、住居のそばに谷水を引き、水力や、風力、太陽光で発電して夜の明かりとパソコンができるぐらいには電気を作ることができる。建物は太陽光や自然の空気を利用して、気候恩恵を最大限利用できる構造にする。

 年間の生活費は15万円ぐらいで、余分に米がとれて農協なんかに売れて3万円ぐらいの現金が入れば大喜びできるようになりたい。猪や猿や鹿などのワナをしかけ、捕らえればそれを食べる。病気になれば自然の薬草を飲み、じっとしていて治し、治らなければそのまま死んでもいい。苦しんで死んでもそれが自然の掟ならそれに従うまでだ。

 朽ち果てるように死に、動物が私の肉を食い、ありやウジが食い、最後は菌類やバクテリアが私を分解してくれる。

捨身飼虎
 法隆寺「玉虫の厨子」に捨身飼虎(しゃしんしこ)という逸話が描かれている。
 釈尊の前世、薩埵王子(さったおうじ)が飢えた母虎とその7匹の子のために身を投げ出し、自身の肉を食らわせたという話だ。仏門に入ることの覚悟を示しているが、その真意はもちろん仏教の持っている慈悲の大きさを示している。衆生を救うとは大宇宙の中で生きるもの全ての存在との相互の結びつきを大切にするということだ。

 他の生き物は食べたり食べられたりして調和を図っているのに人間だけはこの大慈悲を持っていないように思われてならない。

 「大悲心を発し寂然定(じゃくねんじょう)に入りて過去無数劫(こう)の事を見、帰って師に語るらく、われ昔願あり千身を捨てんと、すでにかつて九百九十九身を捨てたれば、今日この虎のために身を捨てて満願すべし」

 なんと深い逸話ではないか。人と話さず、いつのまにか言葉も忘れてしまうのもいいように思う。頑迷で全てのケアーを拒み、けもののように死んでいくのが私の理想だ。

 これは夢の話、現実にそうはいかないでしょうね。それに、私の場合、俗念と野心が強すぎて、自然法爾の道はほど遠いな。

  名古屋E&J法律事務所へのお問い合わせはこちら
              → http://www.green-justice.com/business/index.html

イメージ 1