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№342 バロン薩摩

№342 バロン薩摩

 さて、バロン薩摩は明治維新後現れた稀代の浪費家だ。

 本名は薩摩治郎八。明治34年に生まれ、昭和51年に死亡した。放蕩の限りを尽くし、最後は零落し、浅草ストリップに通い続けた。そして、浅草のストリップ小屋の花形と再婚した。妻は結婚後もバロン薩摩が「大大尽」だったことを知らなかった。

 バロンの名の由来は、彼の浪費と、高い文化的素養による。オックスフォード大学を出て、高級住宅街に住み、フランスの社交界にもデビューしていた。フランスのリゾート地を旅行した。世紀末の危うさと、あだ花のような疑似貴族的な華やかさを備えていた。

 彼はフランスに日本館を建設し、日仏文化交流に貢献した。藤田嗣治などのパリ在住の日本芸術家たちを支援したのはあまりにも有名だ。

 薩摩の実家は貧しい近江の商人だったが、木綿貿易で大成功し、多くの富を作り上げた。バロン薩摩に対しては惜しみなくお金が仕送られた。金を使い、金に執着せず、最後まで誇りを失わなかったバロン薩摩には多くの想像力をかき立てられる。

 紀伊国屋文左衛門にしろ、バロン薩摩にしろ、お金をもうけた者の役割は何だろうかと思う。実業家の社会貢献のあり方には何かこうした無形のものもあるかかもしれないと思うのだ。

バロン薩摩の晩年は零落し,ストリップ劇場の踊り子といっしょに生活していた。バロン薩摩は日本じゃ俺はこんな風だが,フランスではちょっとは知られてるんだと言っていたらしいが,踊り子は本気にしなかったそうだ。しかし,一度,パリに出かけ,みんながバロンバロンと言っていて,この人が言っていたのは本当のことだったんだと感心したそうだ。

 浪費もここまでくれば立派ものだ。バロン薩摩はお金は残さなかったが,私たちにはある種の英雄伝説のようなものを残した。無形の財産は時には金銭の財産よりも価値を発揮することがあるらしい。