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№977 企業の起死回生をはかる

№977 企業の起死回生をはかる
 リーマンショックを契機にした金融危機は企業、特に製造業に大きなダメージを与えた。多くの社長が青ざめ、夜も寝られない日を過ごしただろう。「夜中に飛び起き、布団の上でじっと耐えて正座していました。」。あのときの恐怖は社長を経験した者でなければわからない。当事務所もたくさんの倒産関連の相談を受けていた。

 当時の対策は次の3つにつきる。

 ① 銀行などの金融対応
 ② 徹底的な組織の合理化とダウンサイズ
 ③ 顧客の多様化、新事業の展開

 金融危機をともかくも乗り切った社長たちは、あの時、意識ししてか、しないかにかかわらず常に次の展開を考えていた。

 ① 自社の強み、アイデンティティは何か。自社はどのような顧客に支持されてきたか。
 ② 自社の強みを活かしつつ、どの分野の仕事に応用できるか。
 ③ 自社の強みを活かしつつ、事業の合理化のために切り捨てられる分野は何か。事業の合理化のために他に企業連携で補えないか。

 乗り切った社長たちが一様にする言葉が「筋肉質」に変わったというものだった。つまり、痛みを感じつつ、次への強い意識を持ち、無駄を削減し、事業全体の機能強化はかって、強い組織を鍛え上げていったという意識だ。危機に立てば立つほど自社を解体的に見直し、ぎりぎりでのりきってきたのだ。それは、第二の創業という言葉がふさわしい。私はこうした作業に深い人間的なドラマがあると思う。

【ある会社の事例】
 
 ある企業は自社の特殊技術が部品加工に威力を発揮した。狭いニッチで役立つ技術は多様な自動車部品加工に威力を発揮し、金融危機以前は急激に業績を伸ばしていった。工場を次々に新設した。社長はさらに新しい事業分野に立ち向かっていた。売上げの3割ほどの債務があったが、業績の成長を考えれば無理な返済額ではなかった。

 そこにリーマンショックが襲ったのだ。顧客は当面不要なこの会社の発注を止めた。売上げは2割以下に減少した上、その後の回復も5割にとどまった。社長の決断は早かった。

 新事業からは撤退した。いくつかの工場は統合して一つにした。社員には気の毒だったが、大幅な人員削減を余儀なくされた。

 このとき、次の展開を考え、工場を一つにすることの意義をあわせて考えていた。つまり、それまで複数の工場では生産作業や運送が不合理であったため、統合をきっかけに仕入、生産、発送までの作業の合理化をはかったのだ。

 人員についても社員やパートの作業意欲を維持、高めるための人理管理のあり方を見直した。社内環境を整備し、女性従業員が働きやすい職場に変えていったのだ。人員一人当たりの生産性の基準も作り、意欲と生産性の向上をはかるノウハウを確立していった。

 不要となった資産を売却して債務の返済にあてた。追加融資は求めず、銀行に交渉して借り換えを実施し、債務の長期化をはかった。複数の銀行の商品のうち、常に金利の安いものを選択して借り換えを実施した。さらに、業績の悪化についていけず、思い切った条件変更も行った。銀行には全ての情報を開示し、事業の展望について語った。

 顧客も多角化をはかった。
 少数の大型顧客に偏りすぎていた現状を反省し、顧客規模の見直しをはかった。
 自社の特殊技術を見直し、この技術が自動車部品加工以外の分野に使えないかアタックを始めた。医療機器部品、化粧品メーカーなどそれまでにない分野にも営業をしかけていった。特殊技術は他の分野でも注目をあび徐々に受注が増えていったのだ。

 現在、業績は7割程度まで回復し、黒字を出している。
 顧客の多角化はある程度成功し、展開できる分野を決め、事業展開の拠点となる顧客を選別し、さらに力を入れている。

 組織の合理化、社内環境の整備によって社員の意欲は向上し、一人当たりの生産性は向上した。社長は「これが最大の財産となっている。」と語っていた。

 リスケによってしのいだ状況だが、現在では元金返済計画をたてて、条件変更状態からの回復を図っている。計画では来年にはリスケからの脱却をはかり、その後に無借金経営をめざして銀行対応をはかっていく予定だ。

 私の目からみれば、社長の対応は優等生だ。
 金融不況下でも事業を継続している事業は優秀な企業と言えるだろう。だから、今こそ、リーマンショック以降行ってきた行動を整理して、次の5年を展望する必要があるだろう。私の事務所では現在こうした作業を行っている。弁護士は経営の専門家ではないため中途半端な観があるが、会計士の先生とも共同しながら実施している。