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№525 画狂人葛飾北斎

№525 画狂人葛飾北斎
 富士山と言えば、もちろん、葛飾北斎「冨嶽三十六景」だ。どれも捨てがたいが、「神奈川沖浪裏」が一番ではないだろうか。
 
  http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hokusai_kanagawa.html 
 
 この絵を見ていると激しい波の音が聞こえてくるようだ。波間にさすらい、ただひれ伏して、災いが過ぎるのをじっと待っている人たち。彼らの気持ちはどんなだろう。圧倒的な海にあって、人はあまりに小さい。波の向こうに泰然とそびえる富士に人々は何を思っているだろうかと思う。あそこに陸がある、動かない大地があると思っているかも知れない。どんなの荒波も、全ては富士が調和を図っている。自然界や人の歴史のいかなる変化もそれは富士の手の内ということか。北斎の富士はそれほど確かな存在だ。
 
 私が子供だった頃、「永谷園のお茶づけのり」が大好きだった。そのお茶漬けのりに富岳三十六景の小さなカードが入っていた。以来、富岳三十六景をみれば、お茶づけのりを思い出す。インターネットで調べてみると2000円のプレミアがついている。マニアはどんなところにもいるのだな。
 
 永谷園には東海道五十三次カードや写楽カードもあったようだが、覚えていない。
 
 「富岳三十六景の初版は1823年(文政6年)頃より作成が始まり、1831年天保2年)頃から1835年(同4年)頃にかけて刊行されたと考えられている。発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用いて摺ったことも特色である。」(wiki)
 
 北斎72才というのはすごい。
 北斎は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号はいろいろだが、「画狂人」、「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「月痴老人」「卍」など、どれも北斎らしい雅号だ。北斎は財産に執着無く、赤貧生活を送った。一身を風雅に託し、人生を送り終えた北斎の人生は芸術家の人生にふさわしい。