名古屋・豊橋発,弁護士籠橋の中小企業法務

名古屋,豊橋,東海三県中小企業法務を行っています。

№335 夢の超特急

№335 夢の超特急
新幹線の中でブログ記事を書いています。

夢の超特急は昭和39年に開通した。
幼かった私は父に連れられて「ひかり号」に乗車したことを鮮明に覚えている。
雨が降って、下に流れるはずの雨粒が横に流れていった。

ひかり号にはビュッフェがあって、コーヒーやカレーライスなど売っていた。父と私はたったまま何か食べた記憶がある。ビュッフェには速度計がついており、時速100kmを超え、ついに200kmになっていたのではないかと思う。

何しろ、名古屋の次は東京になってしまうということで、なんだか遠い世界に行くような気がしたものだ。ひかり号のトイレはとてもきれいで、トイレの隣には化粧室があった。化粧室には冷水器があって、紙コップで自由に水が飲めた。袋がペタンとカードのようになっていて、それを広げて水を入れる。携帯紙コップだと喜んで、たくさん持って帰ったような気がする。

小さな子供はひかり号が大好きで、うちの子たちもひかり号のおもちゃを何度も何度もいじっていた。走らせたり、投げつけたりして、我が家のひかり号は、ぼろぼろになっていた。

Wikipedea新幹線の記事はやたらと詳しい。

 全国新幹線鉄道整備法(全幹法)第2条では、新幹線鉄道を「主たる区間を200キロメートル毎時以上の速度で走行できる幹線鉄道」と定義している。ということだ。

驚いたことに、新幹線計画は戦前からあったようだ。
 日中戦争などによる鉄道需要の増大に対応するために1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」があった。

 これは、東京から下関まで在来の東海道山陽本線とは別に広軌(1,435mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶ事を計画したものであった。この計画は翌1940年9月に承認され、建設工事が始められる事になった。

 工事は一部行われ、超特急新幹線では弾丸列車用の用地、トンネルなども利用されたらしい。

 へえ~ 。