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№515 淀屋橋

№515 淀屋橋

 淀屋橋は商売の中心地
 大阪、中之島淀屋橋がある。淀屋橋と言えば、弁護士からすれば、大阪地裁近くの駅という感じだ。経済人からすれば商売の中心地というイメージかも知れない。
 
 琵琶湖に端を発する淀川は途中、瀬田川宇治川と名前を変えて、最後は淀川となる。淀川の中州、中之島は公園になっていて都市工学を研究している友人の話では市民の公募をもとに設計されたということらしい。で、調べてみると、1924年ころだ。
 
 日本経済は東京を中心に動いているが、1920年代というとやはり大阪は商売の中心地だ。その礎は安土桃山にさかのぼる。淀屋橋は江戸時代の豪商淀屋常安に由来する。
 
江戸時代「淀屋」の誕生
 江戸時代は「米」本位の経済だったのだが、幕府が始まった頃には標準品質、標準価格というのがなかった。そこに目を付けて、淀屋は徳川家康の許可を得て中之島に米市を開き、日本の米相場を作り上げた。
 
 もともと築城や河川開発を生業としていた淀屋は湿地帯だった中之島を開発した。中之島は淀屋の繁栄とともに大阪の経済の中心となり、さらには日本経済の中心となっていった。米相場を開き、日本全国の米の標準価格を作り上げた。淀屋は米ばかりでなく魚、野菜の相場も作っている。
 
 淀屋は5代にわたって繁栄し、大名をしのぐ勢力を誇っていたらしい。淀屋は淀川治水で名をあげ、当初豊臣秀吉の信任を得た。その後、大阪夏の陣で本陣建物を徳川家康に無償で提供して近づき信任を得た。淀屋は常に政治と結びついて繁栄した。しかし、五代目淀屋辰五郎(廣當)の時、幕府の命により闕所(けっしょ)処分、つまり財産没収となった。
 
政治には勝てませんでした
 表向きは贅沢が過ぎるという理由となっているが、実際は利権を幕府が手に入れたいと思ったことと、米相場という「米本位経済」の中核施設は政府が管理しなければならないという考えもあったろう。
 
 政治と結びついて発展してきた商売なのにいつのまにかおごり、政治への気遣いを忘れたのも滅んだ原因となっているかもしれない。もっとも、没収になる前に、分社して財産を残し、新たな発展を図ったあたりはさすが商売人だ。
 
 表題の「淀屋橋」は淀屋が作った中之島にかかる橋の名前だ。


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