№1760 川上之嘆(せんじょうのたん)
最近論語の勉強をはじめている。
孔子が川のほとりで述べた言葉に「川上之嘆」というのがある。
孔子はこう述べたそうだ。
「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず」
「逝く」というのは言って戻らないという意味で、川の流れが同じ方向に向かってとうとうと流れる様子を示している。昼となく夜となく休むことのない一方的な流れのことを示している。
これには一日として休むことなく勉学、修行に励むというような意味もあるそうだ。極めればやがては海に出よう。
しかし、どうも多くは、わたくしたちの国でいう「無常」と解釈しているようだ。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
しかし、この無常の言葉もギリシャ人にかかるとなんだか意味が違ってくる。
ヘライクレイトスは「万物は流転する」とのべ、物はひとときとして同じでなく、一方で同じ形を保つと、そこに流転の本質があると述べている。変化というのが物の本質だというである。弁証法的唯物論の走りみたいな議論がされている。これは「無常」とはえらい違いだ。
やっぱり、大河のほとりにたち、万物が流れ、その流れに「天命」を感じるというのがいいな。天命に思いをはせつつ、自らの生きる使命を天に任せる大きな心がこの意味ではないかと思う。自分を疑うな、天を疑わず、恨まず、天に身を寄せ生きていく、それが「逝くものは斯くの如き」というのではないだろうか。
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