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№1190 おんな

№1190 おんな
 「おんな」などというと女という価値観を押しつけているようで、男女参画委員会から文句が出そうだ。しかし、「性」は厳然とあるので、あんまり堅いことは言わんでほしいと思ったりする。

 我が家では壇蜜がちょっとだけ話題になっている。妻によれば「あの人、案外普通の人だわ。」ということだ。なんとなく芸人、バラエティ系の人なので本当の「エロス」などというよりは、どこか健全さを残しているのかも知れない。

 「性」に対する関心は、人間の本性に関わるもので、否定しがたい欲望だ。私などは煩悩が深くてどうも困る。名古屋駅などで、若い女性たちが露出している「白いなま足」など見てしまうと、反射的に触ってしまうのではないか、と恐怖を覚える。

 この性に対する要求は、どこか踏み入れてはいけない恐怖を持ち合わせている気がしてならない。それはどこか不条理な狂気を含んでいるような気がする。ダビンチのアルカイックスマイルの割り切れなさは「狂気」故だ。モナリザはどこか口元の不吉な感じが理性では割り切れない向こう側の世界を予感させている、と、私は信じている。下の絵はダビンチの洗礼者ヨハネの絵だが、口元はモナリザによく似ている。口元に狂気じみた世界を感じないだろうか。



 能では「物狂い」が一つのジャンルになっていて「狂う」ことに深い美の世界を見いだしている。抜けられない愛憎に成仏できない苦しみが込められている。死んで成仏できない浮舟が舞い、旅の僧の力で成仏するストーリーは愛憎のもつ不条理な世界がよく出ているように思う。

 実際、弁護士をしていて家事事件などを多く扱っていると、人の性(さが)というのは罪深い気がする。どうしても恋する夫や妻への執着から抜けられない苦しい気持ちは何が合理的なものを超越しているような気がしてしまう。



 サロメでは洗礼者ヨハネに恋をし、恋するあまり、サロメは父親にヨハネの首を求めた。これをストーカーと言ってしまうと身も蓋もないが、究極のエロスと言えば、「狂気」の中に特別な美を見いだすことになる。画像はオスカーワイルドの戯曲に添えられた、ビアズリーの挿絵。