№785 「信義」ということ
私の一つ上の段階の世代には、任侠の一途な世界に憧れをもった人も多いだろう。もちろん、ヤクザなど社会の害悪以外の何ものでもない。暴力団は世の中から無くなるべき存在だと信じているし、弁護士はヤクザと対決できなければ一人前ではないとまで思っている。
実際のやくざは、適当に約束しては手に負えなくなると逃げだし、他人の金を預かれば持ち逃げし、弱い者と見るや暴力で脅かしてお金をとろうというとんでもない連中だ。
が、しかし、「任侠」で示された「侠」には見るべきものがあると思う。司馬遷も同じ考え方だったようで、史記列伝には「游侠列伝」あり、今で言うヤクザの親分たちのことが記載されている。清水の次郎長みたいなものだね。無頼の徒ではあるが、その「?」の大きさから歴史上とどめておく価値あるとしている。その話は実に紀元前600~400年のころの話となる。
司馬遷は「侠」について次のように言っている。
今游侠(いま、ゆうきょう)
其行難不軌於正義(その行い、正義に不軌なれど)
然其言必信(然して、その言は必ず信)
其行必果(その行は必ず果)
己諾必誠(すでに諾すれば、必ず誠あり)
ひとたび約束したことは必ず守り、その行動は常に果敢だ。一旦、引き受ければ最後までやり通す。「その言は必ず信。その行は必ず果。すでに諾すれば、必ず誠あり。」というのは人としての信頼を得る極意の一つではある。